不安で寝られない夜あるある

不安で寝られない夜はやはりつらい。
夜だからこそ、暗い妄想ははかどるが、体は疲れていてだるい。

悩みや緊張、灰色のどんよりとした煙がかった気持ちを切り替える気合いもない。

焦燥感に襲われてメンタルをぼこぼこ殴られて、やられっぱなし。

跳ね返す気概もない。

具体的に不安な原因がある場合も、無い場合もある。

どちらにせよ、夜な夜な考えてどうにかなるものではない。

それを分かっていても、考えようとして考えているわけではなく、

自然に感情が浮かんで来て、思考が進んでしまうのだ。

それでも夜は長い。

深く沈んだ海の奥底で這い上がれずにずっとだらだら苦しんでいるのが耐え切れず、

youtubeSNS等で現実逃避していると以外と時間が進んで朝になる。

自分はこんなに悩んで、すごくつらかったのに、何事もなかったかの様に朝になって、

外が明るくなって、鳥の声が聞こえてきて、

人が外に出てき始める。

悩んでいようが寝ていようが、同じように地球が回っていて、

一つの大きな大きな太陽系の周期の中に小さな小さな私たちの生活がある。

考え込んでいたこと小さなことだったかもしれないと気づきだして

いつもと同じ朝の太陽に励まされる。

これは私の不安なよるあるあるだ。

 

 

少しヤンチャな生徒の方が先生と仲がいい

学生時代、少しヤンチャな生徒の方が、先生たちと仲が良くて、良い関係に見えることがよくあった。

ルパン三世で言う「ルパンと銭形警部」とか、こち亀の「両津勘吉と大原部長」みたいで、悪友というか、お互いが好きだけど好きじゃないみたいな絶妙で良い関係に思えて、どこか羨ましかったのを覚えている。

当然、少しヤンチャな生徒は時々、問題を起こして、先生に怒られることをあるだろうが、外部の私たちはそれもまた青春の1ページのように見えてしまう。

 

それに少しヤンチャな生徒の方が、先生から求められる様々なハードルが

他の生徒より圧倒的に低い。

例えばヤンチャでも真面目でもない一番中途半端で普遍的な生徒だった私は

授業中、机に教科書を置いて椅子に座ってただぼーっと黒板を見ているだけでは、

先生に「おい○○、ノート取ってるのか?」と注意を受けることになるが、(実際に何度も注意を受けたことがある)

しかし、とある生徒に対しては「お、まだ教科書出してるだけえらいな、次はノート取ってるフリからはじめてみよう」と少し面白おかしく伝える。

これは普段の行いによる求められたハードルが違って、私が教科書出してるだけではえらくもなんともないのだ。

良くない考え方かもしれないが、私も彼らと同じハードルで過ごしていたいと

何度も思ったことがある。

特に受験生の時など、

勉強にプレッシャーの大きく感じていたとき、彼らの様に別の価値観で生きていたら

勉強のつらさが無くなるのではないかとよく考えていた。

 

 

 

同一性について、私が私であるためには何が必要であるか

Aさんが「これが私である」と指す場合「これ」には何が重要視されるのかというのは

いろいろと考えがめぐりやすい問いであると思う。

例えばAさんと全く同じ形で同じ大きさで同じ質の体があればこれはAであると言えるかどうかなどさっきの文での「これ」に必要なことは何なのかという問いである。

私は、同一性を考える際に意識説を重要視するべきだと考えている。

先ほどAさんと全く同じ体を持つ人をAさんだと言えるかという思考実験のように私の隣に私と全く同じ体で、さらには同じ記憶や性格を持っている人がいたとしても、私はその人が「私」であるとは言えないと

考えている。同一性について例を用いて意識説との関連を考えてみる。

私と同じ体、記憶、性格を持った私のクローンが、私と異なる場所に居るとする。

そして、私の目の前にだけ猫が現れて、なついてくると私はその猫の頭を撫でた

とする。別の場所にいる私のクローンはその間、もちろん目の前に猫がいないので猫を撫でたり

は出来ないし、その時の私がしているであろう膝を曲げてしゃがみ、右手を地面から

約30cmの高さで左右に動かすという運動もしない。私のクローンも猫が来れば、

私と同じ撫で方で撫でるだろうが、いないので撫でない。

また、私が猫をかわいいと思っている間も、私のクローンは目の前に猫がいないので

そんなことは考えず、別のことを考えている。

つまり、私の意識とは関係なくクローンは行動し、私の思っていることとは関係なく

何かを考えている。更に私がクローンと対面し、会話したときを考えてみる。

私はおそらく全く知らない赤の他人と話すよりは緊張はしないとだろうが、

それでも初めて会う私のクローンに対しても最初の方は少なからず人見知りを

し、しばらくは敬語で話をし、一応の気を使うはずである。

これは同じ状況の場合、私だけでなく多くの人々、特に日本人は私と似た対応になる

であろうと考えている。そもそもなぜ人は他人に気を使うのかというと、

相手に対する自分の行動や発言が相手にとってどんな感情や気持ちを起こさせるかが

完全には分からないので、意図せず相手の気分を悪くさせたり、不快に思わせたり

しないように、行動や発言に慎重になっているからである。その相手がクローンで

あろうと、自分の言動に対してクローンが何を考え、どう感じるかは自分の意識とは

関係がないので、完全には予知できない。だから、クローンを意図せず傷つけない

ために多くの人々はクローンと会話する際も気を使うはずなのである。

また、たいてい人は自分には気を使わない。

なぜなら、自分は何を考えているか、どういう感情であるかは、

基本的には分かるからだ。

自分と全く同じの体で同じの記憶や性格を持つクローンにも会話する際に、

気を使うということはクローンを他人としてみなしているということになる。

また、自分のクローンと会話する際にクローンに対して気を使わないと言う人がいた

としても、クローンが次に起こす言動を完璧に予知できないので必然的にクローンに

合わせた言動をとらざる負えなくなる。つまりそれはクローンを他人として

接しているということになる。従って、「私」と他人を区別する際に、

体や性格や記憶を考慮する必要はないと考えることができる。

そして、同一性と意識の深い関連性を見つけ意識説を重要視するべきだと考える

要因になる。

チョコシリアル(コーンフレーク)、昔は牛乳でふやかしてたけど今はふやかさない方が好き

子どもの頃、チョコ味のシリアルを食べる時は、器にシリアルを入れて牛乳を入れた後                                

スプーンでしばらくゆっくりかき混ぜて少しふやかしてから食べるのが

好きだった。ふやかすとミルクにチョコが溶け出し、シリアルもやわらかく

なってミルクがしみ込む。そうしてミルクはチョコシリアルを、

チョコシリアルはミルクを、互いによりおいしくし合っていると思っていた。

でも今となってはふやけさせずにシリアルのカリカリとしたあの触感が

しっかりとある方が好きになった。器にシリアルと牛乳を入れてあまり

かき回さずに、ふやけてしまう前に食べる事にも良さがある。

見た目で言えばふやけてないときの方が断然に綺麗である。

チョコシリアルに牛乳をかけた直後、

配色はミルク色とチョコ色のコントラストが明確で

形は中央部分にはシリアルが集まるため凹凸がはっきりとし、

その周りには平らなミルクの水面がある。

このメリハリのある色合いや造形はわかりやすく美しいと言える。

しかし、ふやけてしまうとそれぞれの抑揚が薄まってしまう。

綺麗なミルク色もチョコ色も互いに交じり合って何とも言えない

まだらな白茶色になり、また、シリアルがふやけることで凹凸もなだらか

になり、煌々としていたアルプス山脈が濁った砂利道みたくなってしまう。

そして味については、シリアルがふやけてない方が触感もしっかりしていて

かみ砕くほどチョコの風味が広がるが、ふやけてしまうとシリアル自体のチョコの味が薄まってしまう。

これらの観点での魅力をより感じるようになってシリアルがふやける前の状態の方が好きになったのだが、

唯一チョコシリアルをふやけさせた場合、チョコがたっぷり溶けたミルクの

あの味は他にない美味しさがある。あの美味しさにより過去の私はわざわざ

ふやかして食べていたのだ。

とは言え、結局はチョコの味をシリアルとして多く楽しむか、ミルクと一緒に

多く楽しむかの違いにふやかすかふやかさないかの一つの分かれ目がある。

また見た目においても、ミルク色とチョコ色がまだらに混ざり、やわやわの

シリアルが浮かんだ状態に食欲をそそられる人だっていてもおかしくないし、

それに共感できなくもない。

もしかしたら私はそのシリアルの食べ方に飽きただけかもしれない。

ただ新たなシリアルの楽しみ方ともともとの楽しみ方では真逆ともとれる要素が

多いにも関わらずそれぞれにも良さを感じられることが面白い。

私はこれから飽きるまでシリアルはふやかさずに食べるつもりである。

(だからなんだ)。

チョコ味のシリアルを食べる際、シリアルをふやかしてから食べる派と

ふやける前に食べる派ではいったいどちらが多いのだろうかという

どうでもいい疑問をここに示しておこう。

自動車教習で20日分の21日目(最終日)

私は自動車教習所に通い出した。今日がその21日目である。

タイトルでは20日分の21日と一見ではわけわからないことになっている。

この意味は本来私は教習所の短期集中型の最短20日間で免許が取れるコースで教習所

に通っていたのだが修了検定の後の学科の試験に落ちて日が伸びてしまったため

である。結局想定していた20日間分を超える日数(21日間)

教習所に通ったのである。まあそれは別に良いが、今日はついに卒業検定である。

これに受かれば今日が教習所に通う最終日となり、もう教習所に来ることは

基本的には無くなる。タイトルに最終日とあるように結果から言うと

合格することが出来た。昨日も今日の朝も緊張もあまりしなかったが、

卒業検定をやる前の説明で脱輪や一時不停止などこれをしたら一発不合格になる

という項目の30個くらいを教えられたり、減点されるようなことをいろいろと

説明されたりしているとだんだん震えてきていた。あれは教習所側の戦略だろうか。

多少ミスはあったが、走るコースは走行中に教官に指示されるまま走ればいいため

間違えることもなかったこともあり無難に合格することが出来てほんとによかった。

心待ちにしていた卒業検定だった割にはあっけなく終わった。

検定が終わりロビーのテレビに合格者の発表がされるのだがその時受けていた人は

全員合格していたため、画面には全員合格と表示されていた。合格発表後

卒業式なるものがあり、国家試験に必要な資料とこれからのアドバイスをもらった。

自動車保険や事故が起きたときなどのことについて実際の事例を用いて少し長めの

話を頂いた。それが終わったあとそのままいつもの流れで帰ってしまったが、

これまで分からない事をいろいろと教えてもらっていた受付の人たちに

「ありがとうございました」と一言言えばよかったと少し後悔した。

後は国家試験を受けに行って受かればようやく免許がゲットできるわけだ。

問題集をある程度やって早めに受けに行こうと考えている。

これで自動車教習についてのブログも終わるわけである。

21個も書いてきたが、まだ自分が何をしているかあんまり分かってない。

 

 

 

自動車教習で20日分の20日目

私は自動車教習所に通い出した。今日がその20日目である。

20日目というのは本来の教習所の短期のスケジュールだったら今日が卒業検定

教習所に通う最終日のはずだが、学科の試験に一回落ちたから、遅れをとっている。

今日は自主経路の走行と卒業検定に向けたみきわめを行った。

みきわめでも自主経路の走行があったため今日は二通りの道順を覚えておく必要が

あった。別にそんなに長い距離でもないし、複雑でもないが、私は道を覚えるのが少し苦手で、心配ではあった。だったら寝る前とかに覚えるまでずっと頭の中で

シミュレーションでもしとけば良いが、そんなことはまあしない。

それはそれでめんどくさいし、そこまで覚えられないわけではないし。

それでも何回かシミュレーションしてみきわめも自主経路も取り組み、全てほぼ完ぺきにこなすことが出来た。

そうしてみきわめが合格だったためついに明日卒業検定である。

卒業検定では走行するルートは教官の指示される通りに進めばいいらしいので

道順を覚えなくていい。

昨日も言ったが卒業検定は結構余裕そうである。

一昨日高速道路を走ったせいか車のスピード感にもだいぶ慣れたし、

駐車も問題はなさそうである。

教習所というのは大変なのは最初の方でだんだんと楽になっていくものであるようだ。

修了検定の時は不安しかなかったが、明日の卒業検定に向けては緊張はそんなにない。

自信しかないなんて何も見えてないような事は言いたくないが、

そういう言葉を砕くなら卒業検定に向けた気持ちの割合はだいたい

自信3と期待3と億劫2と緊張2である。

 

 

自動車教習で20日分の19日目

私は自動車教習所に通い出した。今日がその19日目である。

今日は高速道路に出た。一緒に他の生徒3人と同じ車で交代制で運転した。

70k,80k,90kくらい速度を出していて、周りにもそれくらいの速度で走る自動車がいて、

だんだんそのスピードには慣れてきても、ふとした時にエンジン音や風を切る音などで

やはりこの速度はビビってしまうほどの速さであることを思い出すことが定期的に

あった。しかし道路は広いし、きついカーブもないし運転しやすくはあった。

明日は自主経路と卒業検定に向けたみきわめがある。

みきわめでは路上の運転と駐車があるようだった。駐車も自信があるためおそらく

問題なくいくと思っているが、自分が自信を持ってしまっていることに不安を感じている。何か気を付けることは無いかとか準備できることは無いかとか不安な気持ちが割と多くある。緊張も少ししている。

こういう時に思うことがある。

過去見ていたドラえもんのある回で登場した道具で時間をスキップできる道具があった。例えばのび太ジャイアンに殴られそうになる前にその道具を使って時間をスキップすると、殴られた後の状態に一瞬でなれるというものである。

その場合だとのび太は殴られるときの痛みは感じてないが、殴られた後のじんじんする痛みは感じることになる。

この道具を使ってみきわめと卒業検定だけスキップしたいと思う。

そうすれば今感じている緊張をスキップして終わった後の解放感だけを味わうことが出来るからだ。

ただまあこの緊張する時間すらもかけがえのないものであるということは

ドラえもんのその道具が登場した回が示している。

しかし、私は緊張が嫌いである。

だからよくその対処として私は物事を大きくとらえ直すことがある。

例えば、地球に生まれた奇跡が起こってる時点でどんな失敗も小さいすぎることだとか、もし自分が雑草の生まれ変わりだとたら、人間になれただけでいろんなことが

出来るようになれるからどんな失敗も人間でいられるなら問題ないなどである。

思えば、私の緊張への対策は失敗の正当化や失敗の無意味化ともたらえられる。

つまり私の緊張の種というのは失敗への恐れのようである。当たり前のようだが。

実際に失敗が良いか悪いかとか知らないが、やはり私は

「失敗はしたくはないものである」というのどうしてもを覆したいのである。

失敗しても良いと思えれば緊張しないはずだからだ。

これまで色んな考えで言葉上ではそれを覆してきたが未だにそれを忘れて物事に緊張してしまうのは緊張が癖づいているかもしれない。

頑張れば癖は直せるか。知らない。